際立った登場人物が居ないような居るような
悪人が一人も出てこない代わりに、大きな事件も悲劇も起きない、絶世の美女も出なければ英雄も出てこない、長閑な田舎の農村でおきた日常の中にごく稀に起こる、軍隊の滞在や巡回医師の到着。おまけにこの軍隊と来たら、緊張も剣呑さのひとつも持たず、ナルシストで女ったらしの軍曹が率いているし、巡回医師に至っては良い加減な詐欺師まがいの小悪党。相手を騙してどうにかすると言うことより、相手に調子を合わせて小銭を稼ごうと言う程度のことしか考えてもいない。それでもとてもリアルな存在です。
主人公の少女も、家の運命も国の存亡にも関係なく、ちょっとばかり賢くて「この辺りでは」一番の美少女という程度の農場主の娘。一方の若者ときたら小作農で力も強くなければ賢くもない、ひたすらに性格の良さで周りの人々に愛されているという人物という、本当に今日世界中のどこにでもいそうな二人。
伝説の英雄や神々を主人公にして作られて来たオペラが、このような当時の現代劇にあたる世間の人々を主役にして作られるようになったのは19世紀になってからです。それでも血生臭い殺人やら、絶世の美女の病死といった悲劇が多い中、このような牧歌劇はとても珍しいです。事件がなければオペラじゃない!こんな物語はつまらないという方もいらっしゃいます。いらっしゃいますが、それでも、宝石のようにほのぼのとした、幸せで愛らしいこの作品はとても人気があります。
愛の妙薬誕生時の凄まじさ
まずこの作品の凄まじいところは、ミラノのカノビアーナ劇場でオペラの新作を上演するにあたり、あと1ヶ月と言うところで作家が投げてしまったために、劇場側から泣きつかれたドニゼッティがわずか1ヶ月で作り上げた作品だと言うところにあります。
台本作家ロマーニもわずか1週間で全台本を全くの新作から作ることは無理だと判断し、スクリーブがオベールのために書いた『媚薬』というオペラの台本をベースに、田舎の村で起きた媚薬をネタにした他愛もないラブコメの物語を書き上げ、ドニゼッティがたった2週間で全スコアを書き上げています。
作曲家のドニゼッティは50年の人生の中で70を超えるオペラを作曲したと言われていますが、多くは現在ではほとんど演奏されることはなくなっています。
代表作には、悲劇の『ランメルモールのルチア(ランメルムールのルーシー)』といったスコットランドの殺人事件を下にした悲劇や『アンナ・ボレーナ(ヘンリー8世王妃アン・ブーリン)』『マリア・ストゥアルダ(メアリー・スチュワート)』『ロベルト・デヴリュー(第2代エセックス伯ロバート・デヴァルー)』といった、イギリスの3人の女王を物語にした悲劇が有名で未だ人気があります。
喜劇では、この『愛の妙薬』をはじめ『連帯の娘』『ドン・パスクァーレ』などが人気が高く、どれも楽しく笑えるだけでなく、どこか物悲しい切ないところも見せるところが特徴です。
ぜひ聴いていただきたいのは‥
聞きどころとしては、なんと言っても第二幕、ネモリーノが歌う「人知れぬ涙(Una furtiva lagrima)」でしょう。リリック・テノール(抒情的な表現力を持った男性高声)のアリアでも珠玉の名曲として人気が高く、この曲の聴き比べをするだけのためにこのオペラを見るという人すらいるほどです。
その他には、ドゥルカマーラの登場のアリア「お聞きなされよ、皆の衆」は、まるで蝦蟇の油の口上のごとく立板に水と流れたり、ベルコーレの「昔、パリス※がしたように」はベルコーレのナルシストぶりや気障さが楽しめます。
アディーナのアリア「受け取って、これであなたは自由よ」は可愛らしい小曲ですが、実はネモリーノとの短い会話を挟んで続く後半部分は、疲労が最高潮となる終盤に技巧的にも大変な難曲となっています。
一般に愛を歌い上げたり運命を嘆く二重唱が多いようですが、ドゥルカマーラとアディーナの“全く愛のない”二重唱も聞きどころの一つになっています。あくまでもコミカルに見られる結婚式の座興の二重唱はフィナーレにも現れ、なんやかやと言ってもお金じゃなくて愛が全てだよ、と受け取れるような構造になっています。
ところで「パリス※」って誰なの?
この、パリスというのは、ご存知の方も多いとは思いますが、ギリシャ神話の時代、トロイア戦役の原因となった、トロイアの王子の名前です。何をやらかしたかと言うと、スパルタの王メラネオスの妃、世界三大美女の一人とも言われたヘレネーを連れて逃げたわけです。世界三大美女って、小野小町じゃなかった?と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、小野小町は日本だけの参戦です。残念ながら世界的には、《クレオパトラ・楊貴妃・ヘレネー》と言われています。
この、ヘレネーをパリスが誘惑したというのも、大元にはギリシャの神々、ヘラ、アテナ、アフロディテの3人による誰が一番美人かを争う『パリスの審判』がきっかけになっているわけです。不和の女神:エリスが“下も美しいお方へ”と書かれた黄金のリンゴを投げ込んだことから、この3人の誰がこれを受け取る権利があるか、その審判をパリスにさせたのです。自分を選んで欲しい女神たちがさまざまな賂をパリスに提示するのですが、愛の女神アフロディテが、絶世の美女と評判のヘレネを褒美に提示し、結果勝利を得たアフロディテに命じられて、ヘレネーをスパルタから逃亡したわけです。
お金や権力よりも美女を選んだパリスが本当にヘレネーに花束をプレゼントしたかはわかりませんが、自分を物語の主人公パリスに見立てた、自惚れ屋でキザなベルコーレの滑稽さも表しています。
ホメロス「イリアス 上」
【ご参考までに】パリスのお話をざっくり書いてしまいましたので、ここはオペラ作曲当時の基本教養の一つだった、イーリアスをご紹介しなければいけませんね(いや、それほどでも‥)青少年向けのわかりやすくリライトされたものもありますが、オリジナルはやはり岩波文庫。こちらは上巻です。
ドニゼッティの時代、ここら辺は教養として当然だったとは言えますが、ギリシャの神々の酷さについて、どう感じていたんでしょうね?
ホメロス「イリアス 下」
【ご参考までに】こちらは下巻です。
結構な長さがありますが、上巻読んだら下巻も読みたくなりますので‥
独特の言い回しが苦手な方もいらっしゃるかもしれませんが、名前だけ知っているような神話の時代の英雄がここで大活躍する物語です。愛の妙薬関係なく、ぜひ一度お読みいただきたい。